Rosa Fayre

Philosophy of Beauty

美のフィロソフィー

「外見上の美しさは、内面の美しさを示す兆候だ。精神的、道徳的美しさは土台や根源であり、それらが人の美をなすのだ。」

フリードリヒ・フォン・シラー(1759 - 1805)

私たちが生活する中で、美しさと言えば普遍的に外観上のことを指すことが多いように思います。確かに、表面上の物理的なイメージは重要です。しかし、それが本質的に人々を惹きつけることができるのは、内なる実質を映し出しているからだと、私たちは考えます。

さらに、本質的な美しさは、美しさを悦楽するという概念に留まりません。人が他人を思いやる時、社会や環境に気を配る時、勇気を振り絞って助けを求める人に手を差し伸べる時、その魂が真の美しい輝きを放ちます。美しさは、私たちの内的要因として構成されており、決してなくてはならないものです。だから、私たちはそれを求めずにいられないのです。

享楽主義や怪奇趣味が溢れる現代において、私たちは失われつつある美しさを救うべく、すべての活動をする際に自問します、「それは本質的に美しいか、否か」。これら四つの行動コードを基準に、セルフケアがもたらす美を追求し製品を洗練します:純粋さ(Purity)、高潔さ(Nobility)、洗練さ(Sophistication)、永遠性(Timelessness)。

Rosa Fayre

気高き魂

哲学者ラルフ・ワルド・エマーソンは「真実、善良さ、美しさとは、同じものの異なる顔である」と主張しました。私たちは、美しいものと、純粋なものと、善いものが同じ意味合いを持っているように感じます。

もし、世界中が利己主義に満ち溢れ、誰もが他人に手を差し伸べることも、微笑みかけることも許されなかったら、私たちの心は日に日に貧しくなっていくでしょう。美しさは、私たちの魂を潤してくれるのですから。

だからこそ、どんなに困難な状況にあろうとも、私たちは社会貢献や環境活動の歩みを止めてはいけません。「私さえ綺麗なら良い」といったような全体性やコンテクストを軽んじた美意識は、もう時代遅れなのですから。

「世の中は、輝くものを黒く塗りつぶし、気高いものをほこりまみれにさせることを好むものだ。しかし恐れるな。そこになお、高貴なもの、輝かしいもののために燃える、美しい心もあるのだから。」フリードリヒ・フォン・シラーの「オルレアンの少女」にあった言葉です。美しい魂は、決して輝きを失わないのです。

Rosa Fayre

冬に咲く花こそ、誇り高く

花と言えば、軽やかな春夏をイメージすることが多いですが、私たちは「愛」を象徴するバラや「希望」という花言葉を持つアイリスに荘厳な美を感じます。そして、静寂に包まれる冬に咲く花こそが、芯の強さとしなやかさを併せ持った新時代へのアティテュードに相応しいと考えます。

現実はいつだって当たり前のように私たちを追い立てます。この世に生を受けてから墓場で眠りを迎えるまで、誰もが辛いことや悲しいことをたくさん経験します。でもそれと同じくらい、美しいものや輝かしいものもたくさんあります。完璧さによる美より、思い悩み、もがき苦しみ、前に進む歩みを止めない姿のほうが輝き続けるのです。

美しさは、私たちに強き心とインスピレーションを与えてくれます。理論物理学者のアルベルト・アインシュタインは「私の道を照らし、人生に明るく立ち向かう新たな勇気を何度も与えてくれた理想は、優しさ、美しさ、そして真実だ。」と述べています。逞しい花々の恵みを身に纏って、先行き不透明な現実に誇り高く立ち向かっていく姿こそが、私たちが目指すエレガンスある美です。

Rosa Fayre

揺るがぬ意志

情報の洪水に晒される現代において、従来のようにたった一つの正解にむやみに従うことができず、自らの答えを探す努力や知性を要します。それゆえ、進む方向に迷う人がたくさんいます。

世にはびこるフィルターを通して表現された美を押し付けられ、自分の過去やセレブリティ等、今の自分にふさわしくない基準にこだわって、心を痛め続ける人もいます。多様性の意味を曲解し、美と健康を追求することを諦めている人もいます。

私たちはこう考えます。自分はどんな美しさを目指すのか、誰にとって快い存在になりたいのか、大切なのはその理想を実現してくれるもの、長く価値が残るものだけです。だから私たちは、セルフケアの分野において、「話題の美容成分をどれくらい盛ったか」よりも、肌に触れた瞬間に体が発するシグナルや客観的合理性に基づいたセオリーを重要視し、永遠性のある健やかな美を目指します。

フランスの小説家ギュスターヴ・フローベール著「ボヴァリー夫人」にこのような言葉があります、「人間の義務とは、素晴らしいものを感じ、美しいものを讃え、押し付けられる屈辱を感じながら社会の慣習を受け入れたりしないということである。」見聞きしたものを鵜呑みにせず、取捨し、解釈し、自らの糧にしていく努力をやめなければ、いつか自分にとって最も心地よい生き方を見つけられるはずです。